☆ もう より まだ ☆
忙しい忙しいとと言い続け、あんなにヒマな時間に恋焦がれていたのに、いざ
何もすることがなくなると「タイクツ」になってしまいます。^^;
考えてみれば、「一息」と「退屈」って、どちらも自分にとっては貴重なヒマな時間。
それなのに、まるで価値が違ってしまうように思うのは何故でしょう?
ないものねだりという前に、とても大切なこと、自分の思いが
今の心の環境を作り出しているということに目を向けてみました。
自分の人生を、楽しいと感じるかつまらないと感じるかは、その人の
「思い」のままなんですよね。 例えば仕事や育児や家事に人付き合い等・・・
時には不満や嫌なことが出てくるけど、不満ばかりが溜まりに溜まると、
「我慢」や「仕方がない」という沈んだ思いで過ごすことにもなるものです。
発想を変えて、「これは自分を磨く為に与えられたチャンス」とプラスに考えることが
できたならば(そういう風に発想を変えるのってとても難しいけど・・・)、
自分の成長を楽しんだり、何が起きるかワクワクするといった、嫌なことが
あっても前向きな思いで過ごせるようになれるのでしょうね。 幸せか
不幸せかという違いは、自分自身の思いが創り出しているものなのでしょうから。
失恋や離婚の場合も同じで、危機を転機と思えるかどうかの違いだと思います。
自分の方が哀れだとか、損をしたという気持ちに浸り続ければ、哀れで
損をしている自分が生き続け、それが自分の人生そのものとなってしまう。
でも、愛情をなくした痛手をバネにして逞しく歩き出した人は、じきに
経験に学び感謝するという豊かな世界に生きるようになると思うのです。
結論。 〜どんな思いの世界に暮らすか〜? ・・・・何でも 「まだある」
という世界に暮らすこと。 その反対は 「もうない」という世界。 これは
自分の容姿や能力にも、またお金や時間、ありとあらゆる事項に当てはま
ります。今日、出先でお財布に3000円しか入っていないことに気づいた時、
予定が狂ってしまい、ちょっと慌てました。 そこで、「まだ3000円ある」
と、「もう3000円しかない」を口に出して言ってみた。これだけで驚くほど
気分が違って来るのをしっかりと確かめてから、「まだ3000円ある」と
数回宣言し、お財布をバッグにしまった。 これだけで動揺は吹っ飛び、
落ち着いて予定を変更できたのです。
自分の姿を鏡に映し、「もう〇〇歳」と「まだ〇〇歳」を繰り返して何回か
言ってみる。 そして最後は必ず「まだ〇〇歳」で終了する。 結構
気分的に楽になるんですよね、これが。(笑) 現状は同じでも、どんな思いの
世界に暮らすかは、自分次第だと改めて感じられるから。 こんな風に
自分に与えられたものをどう感じてもいい自由と平等って、誰にでもあると
思うのです。
・・・さてと、彼が帰宅するまで、「まだ30分程ある」から、その間ちょっと
仮眠でもとろうかしら・・・・。(笑)
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☆ 心を込めて ☆
みんな誰かと出会いたい、人と触れ合いたい、人と分かち合いたいと心の底で望んで
いるはずよね。 やっと素敵な恋人と出会い、恋に落ちて、結ばれ、もっともっと沢山
恋人と愛を分かち合いたいと願うのに、それがいつのまにか上手くいかなくなって
すれ違ってしまう。 相手を責めて、自分も責めて、なんとか上手くやろうとするのだけど
でも一度空回りし始めた歯車はなかなかかみ合ってくれなくてね、焦れば焦るほど。
好きな人と一緒にいるのに、一人でいる時よりも寂しさを感じる時のやり切れなさは、
言葉に表せないもの。きっと、みんな誰しもが経験していることだと思うのだけど・・・・。
日本では40秒に1組が結婚し、2分に1組が離婚しているとか。 人は孤独から解放
されたくてあえて自由を手放し結婚するのに、再び孤独になっても自由を取り戻そうと
離婚するわけなのかな。得るものより失うものが多くなると、新しい場所を求めてしまう。
現に、子供の父親だし、経済力はあるし・・・と、得るものをいくら計算しても、これ以上
結婚生活を続ければ精神的に失うものの方が大きくなると判断すれば、結局は別れて
しまう。 だから、いくら喧嘩しても仲直りできるうちは、二人でいることでなにかしら
得るものが失うものよりもあるという証拠なんだよね。
・・・私はきっと、分かち合い方が下手なわがままな人間なんだと思う。喜びがなくなれば、
つい、相手を責めてしまう。 最近考えたのですが、この、私の困った習性を治す画期的な
処方箋を見つけたのです。
面倒なことや難しいことを考えないで、一つ一つの行いに心をこめるということ。この
単純な事を黙々と続けること。徹底的にというところが私にとっては画期的なんだけど、
普段の私はあらためて振りかえってみると、何事にもいかに心ここにあらずかが
伺えるもの。 仕事で占いをしたり、原稿を書いたりしている時のような集中力も
なくなりますし。 だから、あれ?最近心を失いかけてるぞ、と、思う時には、暫らく
歩いたり見たり聴いたり食べたりといった日常の動作を「心をこめる」ことに真剣に
こだわってゆったりと続けてみると、自分の心、気持ちが今何処にあるかが手に取る
ようにわかってくるのです。 そうすると、見過ごしてしまいそうな小さなことでも心を
配るゆとりや、そこにある相手の心をくみ取れる感性が実際に滲み出てくるようになる。
・・・日頃から意識的に心をこめて相手を見て、話しを聞いて、接することができれば
きっと自分が築き上げる分かち合いの世界が違うものになっていくような気がするのです。
「心をこめて」毎日過ごせたら、ちょっとのこでも、とても楽しくなるものですしね。
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☆ ボーヴァリー婦人的女の人生 ☆
暑いですネェ・・・・ 全く、外にいるだけで体力消耗します。 これからどんどん暑くなって行くんだもんねえ。
ヤダヤダ・・・。 クーラーのきいた部屋でゴロゴロしていたい気分だけど、子供がいるとそうもいかなくて。
とは言いつつも、午前中はゴロゴロしながら、久しぶり活字に触れていました。子供を産んでからは、
なんとなく落ちついた時間が持てなくて、じっくり本を読むことができませんでした。時間があれば
易や占いのマニアックな本とにらめっこで、あっという間に時が経ちます。 で、久々本棚からフローベル
の「ボウヴァリー夫人」を取りだし、読み返してみました。 好きな本なんです、これ。女主人公のエンマは、
美しく教養もあるけど、常に充たされない人生を送っている。夫のシャルルは仕事第一の医者で、
実直、誠意に溢れ、都会好みの彼女を楽しませる術を知らない。 そんな彼女の寂しさを充たしたのは
子どもだった。 しかし、子どもへの没頭もいつまでも続かず、彼女は自分を不幸な女だと嘆く。女に
生まれてしまった事がそもそもの不幸。男は放たれる自由があり、女は縛られた家庭しかない。
自分も男だったらと悔やむエンマ。ロドルフという女たらしは彼女の心の隙をよく見透かして、
情痴の底に巻き込んでしまう。ロドルフとの充たされた恋に溺れるエンマだが、浮気なロドルフは
エンマをひとときの戯れの相手に選びこそすれ辛酸を共にするなど考えない。駆け落ちの話しも上手く
はぐらかし、身を隠してしまう。エンマは裏切りに絶望し、心配する夫の勧めで劇場へ行くと、
そこでかつての愛人と再会し、激しい恋に落ちる。・・しかし、夫に内緒で彼へ沢山の
贈り物をしたり、自分の身を飾ったりしているうちに莫大な借金を作り、夫に知られまいとして、エンマは
とうとう自殺してしまう。・・・愚かと言えばそれまでの事。この話が名作となったのは、きっと、誰の心にも
潜む人生への懐疑を鋭く衝いているからだと思います。・・・ この年になり改めて読み返してみると、
エンマの悲痛な叫びが心に響いてきます。 ・・・今の時代に生きている私でさえも、いつ、自分の
中の心の隙間に悪魔が入り込むかはわかりません。 人間とはたやすく虚無感に導かれてしまう
弱い生き物だと思いますもの・・・。
・・・などと考えてるうちに、貴重な午前のひとときがあっという間に過ぎてしまいました・・・。
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☆ 因果応報 ☆
お友達のHPで、「因果応報」について語り合う場がありました。 「人生は、蒔いた種のとおりに花が咲く」
この言葉が私は好きなんです。そう、例えば、愛の種を蒔けば、愛の花が咲く。 恨みの種を蒔けば、
恨みの花が咲く。嫉妬の種を蒔けば、嫉妬の花が咲く・・・・。 自分の心がそのまま花になるんですよね。
因果応報とは、まさに蒔いた種が因で、その種が成長し、咲いた花が果という事なるのですね。
失敗を怖がってばかりいて、自分や他人を疑ってばかりいると、いつのまにか自分の人生を恨む事になり、
同時に他人をも憎み、恨む事になります。 悩みはそういった、心の弱い部分を認めないところから
生まれてくるような気がします。 でも、弱い部分を認めることって、これがけっこう難しかったりしますよね。
なかなか自分に素直になれませんし。。。。 どうしてでしょう? 遠い昔、幼い子供だった頃は、
確かに素直の種を蒔いたはずなのに。 どうして咲かないんだろうね。 知らずに摘み取ってしまったの
かしら。そして、その代わりに、悩みの種をどんどん蒔いていたのかな。
・・・などとなんだかしんみり考えさせられました。 いつ頃から、単純な考え方ができなくなってしまったん
だろうと。気づいたら、自分を飾る事ばかりに神経を使うような人間に成長していました。
一日、そんな事をずっとぼんやり思っていたら、もうこんな時間・・・・。 夕飯の仕度をしなければ。
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